シンガポールの黎明期1970年代・3

シンガポールのウオーターフロント 1971年

Collyer Quay Singapore 1971,

シンガポールに住みはじめてまもない頃、街をぶらぶら歩いていて、下のような絵葉書を見つけた。8年前にブラジル渡航の途中で、オランダ船で寄った時とあまり変わらない都市風景である。その時は、市中の河口近くで、耐え難いほど蒸し暑い屋台に入った。そこで、バナナの葉っぱに盛られたカレーご飯を素手で口にしているインド、マレー系の人達を初めて見ることとなった。彼らのその食事作法にショックを受けたのを思い出した。8年後、その時と変わらぬ風景がそこにあった。この間シンガポールは停滞の中にあったことになる。

都心ウオーターフロント 
1970年初頭当時のポストカード 

(下)開発後の都心ウオーターフロント。2つの建物を残して、その他は全て開発により消滅した。

1970年代初頭の絵葉書 
Collyer Quayおよびシンガポールリバー

1. 旧シンガポール中央郵便局。 シンガポール川の河口の一等地に建てられた。完成は1928年。最上階には金融相の大臣の執務室があった。筆者は、大臣私邸の設計打ち合わせのために、ここを何回か訪れたことがあった。その後中央郵便局は、他の場所に移り、この建物は民間に払い下げられた。1990年ごろになって外観を残したまま内部が改装され、五星のフラートンホテルに衣替えになり、国の重要文化財に指定された。  

2. クリフォードピアー。シンガポール港の表玄関。後に淡水化され、マリーナベイとなり埠頭としての役目を終え、レストランになっている。 

3. UOB ショッピングセンター・ナイトクラブ・駐車場。当時建築工事中。筆者が設計の監理に携わった。 

4. 香港上海銀行ビルとチェンジアレー。 香港上海銀行の左となりには、たくさんの小店が集結していた。そこにチェンジアレーという空調なしの蒸し暑いアーケード街があった。両替商はほとんどがスリッパ履きのインド系かアラブ系の人達であった。自由港であるので、あらゆる通貨がここで両替することができた。後に、再開発のため全てが取り壊しになった。

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Collyer Quay Singapore 1971,
沢山の植民地時代のコロニアルビル群
後に右端のビルを残し、すべてが取り壊され、

再開発されて、今は残っていない。

5. ボートキー。当時は沢山の小型の船荷用木造船が密集していた。苦力(クーリー)と呼ばれ、低賃金で熱帯の太陽の下で過酷な労働を強いられる男たちが、河岸の倉庫に船荷の積み替えをおこなっていた。川はごみなどで汚染がひどかった。

6. シンガポール移民局。とても小ぶりなコロニアル風の建物。シンガポールでの就業ビザなどの許認可事務をおこなっていた。1969年当時、まだ英国人の行政官が、この建物の中で事務をおこなっていた。その後、入国管理業務が拡大しため他所に移転。 

7. ロビンソンデパート。 当時のシンガポールの最高級百貨店。日本では見たことが無いような免税品でばかりで、ヨーロッパ各国のブランド物、各種革製品や酒類が豊富に取り揃えられていた。

クリフォード・ピアー

海運の玄関口、クリフォードピア、1971年建築現場から撮影

海運の玄関口、クリフォードピア、1971年建築現場から撮影

(下) 海の向こうに集合公共住宅が建ちあがっている。1970年代以前から政府の公共投資が何より先に、公共住宅供給に向かっていたことがわかる。その政策はその後も続き、後には約80%のシンガポール家族が、これらの高層住宅団地に暮らしている。

1971年 筆者撮影

上の写真の様に、大通りには、信号はあったが横断歩道はなく、いたるところで歩行者が自由に道を横断していた。、それが普通の道路マナーであった。

以下は、1971年当時のクリフォード・ピアーの写真です。

1971年 筆者撮影
1971年 筆者撮影
1971年 筆者撮影
1971年 筆者撮影

Collyer Quayクリフォードピアー埠頭で客待ちするおびただしい数の人力車。

1971年 筆者撮影

Collyer Quayクリフォードピアー埠頭前、飲料水、ジュースの屋台に群がる人々。1971年撮影

1971年 筆者撮影

この場所が夜になると。。

この埠頭の昼間の様子は、夜になるとその様相を一変する。上写真のような勤め人や家族づれの人々は、潮が引くようにいなくなる。暗くなると、沖に停泊する貨物船から沢山の船員達が、小型船に乗りこの桟橋に上陸する。それを待ち構えるが如く、照明がうらさびしい夜の街の色調になり、夜の仕事に就く若い女性たちが、たむろする場所になる。昼間は一般市民の海との接点。日が暮れると海の人達の陸との接点。同じ場所でも集まるひとにより二重の役目を果たす場所はめずらしい。

クリフォードピアーを見下ろす進行中のプロジェクト。

小生が携わって完成した最上階には、シアターレストランが計画されていた。赤坂にあった高級ナイトクラブ「コパカバーナ」のようなものである。東京から、当時この世界の最先端をきっていた「ムゲン」(開店1968年ー閉店1987年)の舞台照明のデザイナーの女性が、シンガポールに打ち合わせのため派遣されて来た。

打ち合わせの後、休息と充電のため飲み食いが手軽に出来る野外の場末風の場所に出かけた。深夜になると、ほぼ裸体になった米軍の兵士たちが、泥酔の後、はめを外し、公衆のトイレの屋根に上り、数人で裸おどりをし、大騒ぎをする事が恒例だった。それをサカナに飲み明かすわけである。朝の3時ごろになり、閉店が近づくと、決まって地元の人と欧米人たちが乱闘になり、その様子を見ることになった。かれらはベトナムで生死を分ける戦いの最中にあり、与えられた休暇を使ってバンコクやシンガポールで苛烈な戦争の恐怖を発散させる行為を、われわれ守られる側の人間がそれを非難することは出来ないであろう。

その後、一時帰国し、赤坂シーザーズパレス地下にあった高級ゴーゴークラブ・ライブハウス「ムゲン」のサイケデリックな舞台を見学し、二次会で六本木の芋洗坂にあった地下のアングラ劇場にも招かれ、それらの異空間にドップリとひたり、以後の現場での仕事に役立てるようにした。 

下4枚の写真は工事の進捗状況を記録したものである。

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OCBCセンターより鳥瞰する

1973年ごろ、シンガポールの知人である若いエンジニア達の誘いを受け、当時建設中であった超高層ビルを見学する機会を得た。建て主は、シンガポール3大銀行の一つ、OCBC(Oversea Chinrse Banking Corporation Ltd)である。高さ200m、52階で、設計者はアメリカの著名建築家 I. M Pei(1917-2019)ということを知っていたので、またとない機会であった。以下は当時撮影した写真である。

(下)正面に見下ろす建物は、小生が携わって完成したプロジェクト。
1階に店舗、銀行 2階に飲食店など 最上階は大型ナイトクラブここではシンガポールで唯一、トップレスショーが特例で認可された。

1973年 筆者撮影
低層の赤屋根のビクトリアンスタイルの建物
ロー・パー・サ フードコート
ビルの谷間に埋もれつつある

1973年筆者撮影
(左)DBS銀行本社ビル。大林組施工
(ゼネコンのうちシンガポール進出が一番早かった)
(中)低層ビル。シンガポール航空本社ビル

(右)シンガポール年金機構。建築中
1973年筆者撮影
インターナショナルプラザ・オフィスビル。50階。建築中
海の向こうはセントーサ島。
手前のコロニアル風低層の建物は、交通警察。免許の更新に訪れた。

1973年筆者撮影
シンガポール川の河口にあったUOB 銀行の本店ビル。
1980年代に取り壊されツインタワーに生まれ変わる。
1973年筆者撮影
真ん中のツインタワーはUOB 銀行の本店ビル。
丹下健三氏設計、1980年代完成。
右端にOCBCセンター.I M Pei氏設計。1970年代完成。
遠方に:IRマリーナ・ベイ・サンド

2000ごろ筆者撮影
シンガポール川の河口。
右手に旧中央郵便局(現フラートンホテル)
英国植民地時代からの2つの鉄骨造の橋、現在も健在。
アーチ橋の向こうに、シンガポールのシンボル、マーライオン。

1973年筆者撮影
汚染したシンガポールリバーに係留する積荷ボート。
川の両側に連なる倉庫群、クラーク・キー。
その後積荷ボートは禁止になり、川もきれいになり、

両岸はリバーフロントのエンターテインメント街に変貌。
1973年筆者撮影
チャイナタウンの集合住宅、完成間じか、1973年

ヘルメットの3人組

工事中OCBCセンターより

1973年筆者撮影
ヘルメットの3人組、OCBCセンター現場にて。1973年筆者撮影

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