シンガポールの黎明期1970年代 ・2

エンジンがかかった !

1960年後期から1970年初頭にかけてのシンガポールは、その立ち位置を、自由貿易港として、中継貿易、海運、造船、商業などを、その基盤としていたと思う。まだ東南アジアの発展途上以前の一都市国家であった。海外からの観光客も稀で、日本人の仕事上の滞在者らも、商社、銀行、保険、特殊技術者など、どちらかというとエリート層がメインで、数千人程度であった。

国が誕生して間もない頃に、政府は、民間投資家への観光産業優遇政策を打ち出し、民間から投資を募り、土地の入札が行われ、数々のホテルプロジェクトが開始され始めた。また同時期に平行して、海外の製造業からの直接投資も増加する流れが出来、ホテルの需要も増加し、この国の初期政策の狙いは成功して行く。

マンダリンオーチャード プロジェクトに参画

建築開始のセレモニー

スピーチは、オーナーである地元大手銀行の頭取によりとり行われました。当時の政府高官も参列しています。

築開始のセレモニー

その後、地場の建設会社により在来工法で順調に、立ち上がりつつある。

オーチャードロード。 日本車はまだ進出前で、英国製の車が圧倒的に多い
1970年 筆者撮影

(上) 1970年当時のオーチャードロード。 現在は一方通行であるが、当時は2面通行であった。この当時からすでに交通渋滞が激しくなっていた。

(下)足場なし、安全囲いなし、工事用リフトなし、1970年当時の建築現場。完工までに不幸にも4人の人身事故があった。

1970年 筆者撮影

当時を振り返ってみると、テレビはほとんど見ることがなかった。早口の英語の聞き取りが出来ないし、まして中国語も勿論解らないので、テレビは無用の長物であった。地元の英字新聞ストレーツタイムスが唯一の情報源であった。

建築現場の定例ミーティングは、毎週、関係者一同20人以上の大人数で行われた。飛び交うシンガポール風英語には、しばらくお手上げで、みんなに迷惑をかけていたとおもう。ただし打ち合わせ記録(英語)の読み書きには問題がなかった。ミーティングの記録には、発言と違う内容が記録されたりしていて、次週にその記載を修正したり、スッタモンダが多かった。現場での職人の間では、中国語の方言である福建語や広東語が飛び交っていた。

3年間の工事中に、充分でなかった設計図の補完図面の作成、発行や、思ってもいなかった問題に対処する解決や調整などで、毎日が戦場のようであった。楽しかったのは、工事が一段落するたびに、関係者で集まって行う飲み会であった。その際には多数派の現地の関係者が、われわれ少数派の外国人をウイスキーやブランデーの一気飲みで、飲みつぶれるまでアタックするのが行事になっていた。

当時東京の新宿副都心開発の先駈けとして、京王プラザホテルの工事が同時進行していた。どちらがどのくらい速く完工するか、注意を払っていたものだ。結局京王プラザは2年半ほどでオープンにこぎつけ、シンガポールのマンダリンは3年半ほどかかったので、1年程の遅れになった。日本では水周りのバスルームがユニット化され、工場生産の製品を現場に搬入し設置するようになっていて、工事のスピードアップに道が開けていた。それに比べ、シンガポールでは、すべてが現場の手作業であった。また加えて、工事中に4件の不幸な人身事故が発生し、そのたびに当局から2週間の工事ストップがかかり、遅れの原因のひとつでもあった。

定点観測・昔とその後

完成直前のシンガポール・オーチャードロードのマンダリンホテルと、その30年後の都市景観を、比較が出来るよう同じ地点から撮影し、記録になるようにしました。

(下)  36階の屋根のレベルまで立ち上がってきた。写真右上に、小生の住んでいたエメラルドマンションが写っている

1972年 筆者撮影
2000年ごろ 筆者撮影

(上)  2000年ごろ同じアングルから。緑色のスクリーンに覆われた、小生の住んでいたエメラルドマンション、改装中。すでに、ビルの谷間になっている。2000年ごろマンダリンオーチャードホテルより撮影。

(下)  36階の屋根のレベルから東側の市街地、海が良く見え、天気がよければインドネシアのバタム島もみえる。1972年撮影

1972年 筆者撮影
2000年ごろ 筆者撮影

(上)  2000年ごろ同じアングルから撮影。ホテルや事務所ビルが増えて、海が見えにくくなってきた。

(下)36階の屋根のレベルから西側の緑地帯を見る。1972年。    
右端に開業間近のシャングリラホテル。左はすでに開業しているヒルトンホテル。真下の空き地に後年高島屋が出現します。

1972年 筆者撮影
2000年ごろ 筆者撮影

(上)  36階の屋根のレベルから西側の緑地帯。2000年      前面の敷地には高島屋のSCが完成、開業。シャングリラもヒルトンも、新しい建物にかくれて、もう見えない。茶色いビルは低層階に高島屋。ニーアンシティー。右端のビルに小生の事務所があった。ショーハウス。2000年

(下)前面に開業済みのヒルトン。その遠方の緑地は、高級住宅街があり景観保存地区になっている。日本大使館もこのあたりにある。

1972年 筆者撮影
最上階の回転レストランの屋根部分を施工する鉄骨職人
ヘルメットなし! 1972年 筆者撮影
当時の命綱とヘルメットなしの職人 1972年 筆者撮影

同じ最上階の回転レストランから撮影。ニョキニョキと建つおびただしい数のマンション群。(下)2000年ごろ、

2000年ごろ 筆者撮影

(下)マンダリンホテル上層階より。左奥にブキティマヒル 1972年

1972年 筆者撮影
2000年ごろ 筆者撮影

(上)密度を増した高層建築群。2000年同じアングルから。 左奥にブキティマヒル。熱帯雨林の保護地域

(下)ホテル内に日本料理店の開店を準備する人たち
シンガポール初の本格的日本料理店の準備で忙しい。

1972年 筆者撮影

中学の同級生、東京からシンガポールを訪れる。1972年完工間際のマンダリンオーチャードホテル屋上にて。真下の緑地は、首相官邸〔イスタナ宮殿)。(下)

1972年 筆者撮影

完成直後のオーチャードロードのマンダリンホテル。

1972年、完工直後のホテルエントランス。入り口にはターバンを巻いたインド系のドア-マン。そして館内には、真っ赤なチャイナドレスの若い女性のホテルスタッフ。

1972年 筆者撮影

マンダリンホテル開業直後のオーチャードロード1972年。道路両側の低層建物は、再開発により全てが取り壊しとなった。

1972年


シンガポール市街地中心部で建設中のOCBCセンターから筆者撮影。1973年(下)

1973年 筆者撮影

シャングリラの第一号ホテルがシンガポールに建ちあがる。1969年

マレーシアのシュガーキング(砂糖王)と呼ばれたロバート・クオック氏が、この広大な一等地の入札に成功し、ホテル建設が始まった。その後このホテルは各国の首脳級の宿となり、数々の国際会議の舞台となった。この成功をバネにして、アジアの主要都市に、シャングリラのブランドを広げることになった。

1969年 筆者撮影
おびただしい量の足場用の木材。1969年 筆者撮影

暑いので裸でしかもヘルメットなし!シャングリラホテル現場。
鉄パイプ足場普及前の木材による足場。1970年

1969年 筆者撮影
1969年 筆者撮影
1969年 筆者撮影
シャングリラホテルの現在 sankei photo

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