転職、独立、そしてオイルショック
シンガポールで3年駐在し、ホテル建築などの仕事に集中し完成した後、任務を終えて帰国する段取りとなった。その段階で、所属していた会社の社長から、香港転勤の打診があった。香港は、一時帰国の際に何回となく経由し、都市観察をしていたので、香港定住のきびしさを感じていた。最終的に香港駐在を断り、引き止められたのもかかわらず、辞職することになった。
シンガポール・インドアースタジアム
一方その頃、東京のある著名設計事務所から、シンガポール政府発注の室内競技場建設の現地コーディネーターとしての仕事のオファーがあった。すでにシンガポールに3年ほど在住して、多少の知己も出来ていたので、現地法人を作り委託契約を作成し、このオファーを受けることになった。1972年のことであった。
東京から送られてくる設計図を基にして、現地での建築コスト積算をシンガポール政府の下部組織に、毎月提出をするのが主要な任務であった。政府の役所に専用の1部屋をあてがわれ、役所の技官達とも知故ができ、仕事は順調に進んでいた。ところが、1年もたたないうちに、1973年10月にオイルショックが発生した。このプロジェクトは、チャンギ新空港計画と並び当時の二大国家プロジェクトのひとつであったが、建築工費高騰により政府は室内競技場の建設計画を断念した。小生の委託契約もキャンセルになり、安定した収入源が断たれた。
東南アジアゲーム・テニスコート
オイルショックにより安定した収入源が断たれた。それにより独立して事務所を構えることを余儀なくされた。最初の仕事は、幸いなことに政府のスポーツ振興局から予定されていた東南アジアゲーム用の16面のテニスコートの設計を特命で受注することができた。雨の多いシンガポールで地面が常にぬかるみ状態であった。地元の施工業者は大変だったことと思うが、無事予定期間内に完成した。その後この施設は、45年以上現役である。新陳代謝の激しいシンガポールにしては、めずらしく長命であるといえる。
シンガポール郊外の様子
オイルショックが起こり、市内では不動産デベロッパーが苦しんでいた頃、郊外では下の写真のようなのんびりとした世界が広がっていた。ゴム林や果樹園が沢山の面積を占めていて、これぞ「南洋」といった世界であった。
その後、条例により木造建築はすべて認められなくなり、これらの建物は順次消えてゆく運命になった。
かやぶき屋根があちこちに存在。
海辺には「ケロン」とよばれる小屋〔ケロン)が海に突き出している。週末このケロン小屋のなかで、真下で獲れる魚介類を焼き、飲み食いしながら、夜のマージャンに興じることが出来た。(写真下)後になりこれらの簡易施設は、違法建築として取り壊しになった。その後は、こういったトロピカルな海上装置を楽しむには、マレーシアかインドネシアに出国しなければならなくなった。
夕方のボート。対岸はマレーシア。
国土を増やす!
大規模な土地の掘削と埋め立てが始まっている
1970年ごろ、週末にシンガポール北東部の郊外をドライブしていると、偶然にも、下の数枚の写真の様な大規模掘削が行われている現場に出くわした。草木は伐採され、前の写真の様な木造民家も、果樹園も同時に取り払われたに違いない。
当時筆者が出入りしていた1970年前後のシンガポールの人口は200万人といわれていた。面積は淡路島と同程度(約580km2)といわれていた。その後しばらくして、面積は東京23区(約620km2)にたとえられるようになり、さらに2017年ごろになると国土は約720km2となった。47年間に約24%の増加であり、東京23区に川崎市の面積を加えた広さに達したことになる。1970年代は、中心部からチャンギヴィレッジまでは、戦前に出来たであろう細い道(East coast road)があって、そのすぐ脇は海岸線で、海に面したハヤリの大規模海鮮料理店があった。埋め立てにより出現した、現在の空港から市街地に通じる片側3車線の道路は、ブーゲンビリアやレインツリーが連続するすばらしいアクセスに変身した。これらは、約15キロにわたり、すべて埋め立てによりなされた。
これらシンガポール東部の台地から掘削された大量の土は、ベルトコンベアーで海ぎわに運ばれ、今日のチャンギ空港の埋め立て造成に使用された。また掘削されたあとの土地には、大規模な高層住宅団地が造られて行った。
その後もインドネシアの領土である小島(カリムン島)の丘を切り崩し、砂利や砂をタグボートで輸入したりして、建材や埋め立てに使い、永年にわたり国土を増やしてきた。それがかなわなくなると、はるかカンボジアにまで手を伸ばし、川砂の輸入を試みたりした。小生の知人が資材輸入にかかわっていたのでそれを知ることになった。
旧英連邦軍が残した兵士宿舎
1968年イギリス軍がスエズ以東からの撤収をきめ、1971年にシンガポールからも撤退すると、数々の関連施設が残された。あるものは取り壊され更地となった後、コンドミニアムが建てられ、あるものは保存されリーゾート施設として再活用されることになった。
(下)セントサ島の旧英連邦軍兵士の宿舎。1971年
英軍の撤退によりシンガポール政府に引き継がれ、リゾートホテルなどに修復され使われている。
英国植民地時代の大邸宅
シンガポールの緑豊かな高級住宅地には、大きな敷地を持った数々の大邸宅が残されていた。そこに住んでいたのは、軍の将校、東インド会社の支配人、香港上海銀行の支配人、シンガポール港の支配人、等々であった。
イギリス植民者たちは、戦後になり残されていた数々の大邸宅を手放した。過っては現地人オフリミットの高級邸宅地域の豪邸は、富を築いた中華系の金持ちたちの手に落ちることとなった。敷地面積が充分大きかったので、そのうちの一部を除いてほとんどが高級タワマンになった。また5ヘクタールあまりの広大な敷地の中にあった大きなな一軒家は取り壊され、現在はインドネシア大使館と大使公邸や館員宿舎に変貌している。
スコッツロードにあったグッドウードパークホテルのマネジャーの紹介で、オーナーを知ることとなった。彼が所有していたのが、この植民地由来の邸宅であった。年季がかかったこの建物を補修して蘇らせたいとの注文であった。ところが、オイルショックの真っ只中で、建材の値段が高騰している最中であり、この試みは中止になった。華僑の人は思い立つのが早いが、退くのも早い。これらの建物は皆類似したつくりで、入り口前にたっぷりした車回し、1階にパーティーが出来る大広間、2階には広いベランダ付の広い寝室、本館に付属して2台以上のガレージ、使用人部屋、警備員詰め所。の構成が一般であった。
シンガポール日本人会館
戦後途絶えていた日本人会は1957年に再開される。1963から1979年まではブキティマロードにあった。(1971年入会)1979からスコッツロードに移転。
少人数で運営されていたスコッツロードにあった日本人会クラブハウス。(1979-1983)広大な政府所有の敷地のコロニアル風一軒家を改装したものである。今は環境庁のビルになっている。クラブハウスの改装設計は1978年に小生の事務所が行った。